2018年度 シラバス情報詳細

●時間割コード
20180011531

●科目区分
基礎セミナー

●科目名
基礎セミナーA
●主担当教員名
黒田 光太郎

●単位数
2単位

●開講時期
Ⅰ期
月・5
●対象学部
文系・情(自然・コン)・理・農・工(化生・マテ・電情・機航・土建)



●本授業の目的およびねらい

セミナーのテーマ:1968/2018-現代社会を1968から考える
 2011年3月11日の東日本大震災を経験して、私たちはどのような社会を生きていくのかを問い直そうとしています。このセミナーでは、現代社会と深くつながっている「20世紀の転換点」となる、1968年を象徴とする1960年代後半から70年代前半の様々な出来事との関連から現在そして未来を考えていきます。これを通して、学問研究の基礎「読み」「考え」「書き」「話し」の方法を学び、自立的な学習能力の修得を目指します。また、学生、TA、教員の交流から、大学生としての動機付けの機会にしたいと願っています。

●履修条件あるいは関連する科目等

 好奇心が強く、主体的に参加できること。学部は問いません。文系と理系が交りあうことを希望します。基礎セミナーAとBとつなげて、通年のセミナーとして運営したいと考えています。通年の履修が望ましいが、それにこだわるものではありません。

●授業内容

 1968年から69年にかけて、全国の大学を中心とする学園闘争が燃え盛りました。68年に拡大した背景には、世界の青年・学生などの運動の高まりがあります。中国の文化大革命の若者のスローガンである「造反有理」、その後の社会主義の崩壊につながっていくチェコスロヴァキアの「プラハの春」、そして世界各地で起きたスチューデント・パワーと呼ばれる大規模な学生運動です。中でも、パリの「五月革命」は大きなインパクトを与えました。また、ベトナム反戦運動はアメリカ全土に拡がっていました。
 日本の学生が立ち上がった原因として、一人ひとりがトータルな人間として成長し発展しようと希望に燃えて進学したのに、マスプロ教育や自説を述べるだけで教育に情熱のない教員たちなどに失望したことがあります。進学率の急激な上昇に伴い、学生数は10年間で約10倍に増加したのに、大学改革は遅れていました。また、大衆化した大学生にとって、高い学費は重い負担となりました。また、当時、ベトナム戦争を戦うアメリカと日本政府に対する激しい怒りや、70年に迎える安保条約自動延長への反対も盛んでした。
 1968年には、政治の革命だけではなく、文化の革命、意識の革命も大きなうねりとなりました。カウンタ―カルチャー、アングラ演劇、映画のヌーベルバーグ、フリージャズ、フォークソングなど多くの活動がありました。公害の拡がりは科学・技術を問い直すことを要求し、「反科学」ということばも生まれました。「3・11原発震災」を経験して、私たちは新しいエネルギーさらには科学・技術の政策を必要としています。しかし、それは人びとの生き方に関わる政治や文化や社会の課題と密接に関係しています。
 このセミナーでは、最初の数回は私の1968体験を話します。そのあと、受講生一人ひとりが、自分の関心のあるテーマを選びます。それは政治や社会の問題でも、音楽や演劇や映画などの文化に関わることでも、科学・技術のテーマでも構いません。その後、毎回、2人あるいは3人が発表して、その後にグループ討論を行い、発表内容をより豊かなものに仕上げていきます。学期末には各人がレポート(A4判10ページ以上の論文)としてまとめ、全員のものを印刷して冊子をつくり、成果物として受講者に渡します。


●成績評価の方法

発表と討論への参加:30%、出席:40%、提出物:30%
適切な時期に「履修取り下げ届」を提出した学生の履修取り下げを認めます。

●教科書

使用しません。
必要な資料はプリントを用意します。

●参考書

小熊英二著『1968(上)(下)』新曜社(2009)
四方田 犬彦・平沢 剛編『1968年文化論』毎日新聞社(2010)
西川長夫著『パリ五月革命 私論 転換点としての68年』平凡社新書(2011)
高草木光一編『1960年代 未来へつづく思想』岩波書店(2011)

●注意事項

 1968年に私は大学1年生でした。さまざまな出来事が大学内外で起こり、それを契機に多くの交流が始まりました。このセミナーが皆さんにとって新たな交流の場になることを願っています。

●本授業に関する参照Webページ



●担当者からの言葉(Webページのみ表示)

『名大トピックス』2010年5月号に、名大を退職した際に寄せた短文を掲げます。

私自身の大学 1968/2010

黒田 光太郎  大学院工学研究科教授

 1983年に留学先の米国から赴任して、27年間名古屋大学にお世話になりました。還暦を機会に、名城大学で教育研究の新展開をはかることにしました。大学院生を終えるまで九州で過ごしましたので、こんなにも長く名古屋で暮らすとは思ってもいませんでした。
 1968年、私は九州大学の1年生でした。入学した2ヵ月後に、大学構内の建設中の大型計算機センターに米軍のファントム機が墜落・炎上しました。これをきっかけに自分自身と社会との関わりを考えるようになりました。ベトナム戦争、公害問題、様々な問題が渦巻いていました。ベトナム反戦のデモを行い、水俣病裁判の傍聴に通い、洞海湾や瀬戸内海の汚染調査に加わり、三井三池のCO裁判の支援に関わるなど、様々な活動を経験しました。この頃の私にとっての「大学」は、大学を超えた教員や学生との交流、さらには街の中での多くの人びととの出会いの中にありました。こうした体験が私自身にとっての教養教育であったと思います。
 1997年に教授になってからは、教養教育との関わりが大きくなりました。2002年からは教養教育院教授、2003年1月から2年間は高等教育研究センター長を経験して、様々の分野の教員や学生の方々と仕事をする機会があり、教養教育のすばらしさを再確認しました。教養教育を全て教員が等しく担う名大方式は、総合大学の名古屋大学だからこそ実現できました。今、教養教育の重要性が見直されています。名古屋大学の教養教育がこれからも発展していくことを願っています。



時間割一覧へ戻る